日記 - 2014-09

2014-09-29

To do or not to do

「用があることは確かなんだけどね。ちょっと訊きたいことがあるの」

俺の真正面に朝倉の白い顔があった。

「人間はさあ、よく『やらなくて後悔するよりも、やって後悔したほうがいい』って言うよね。これ、どう思う?」

谷川流「涼宮ハルヒの憂鬱」

せっかく秋なので、甲斐の開運ひやおろしを買って@camypaper宅で飲みました。ひやおろしは2年前に飲んですごくおいしかったので、去年も飲もうと思っていたんですが忘れているうちに時期が終わってしまい悲しかったので、これからは毎年忘れないようにしたいですね。

あと、1年ぶりにドミニオンしました。本当に去年のロ技研合宿でやったのが最後だったと思う。元がそんなに強くないのもあるけど、久しぶりでも割と覚えていて十分楽しめました。


最近は時間の使い方がゴミのようになっていて、研究なりプログラム書くなりしたほうが良いと思っていてもダラダラと引き伸ばして、Twitterやマンガを読んで時間を潰していると何もできなくなっているみたいな感じです。

やらないで後悔するよりもやって後悔したほうが良いという言葉、さらに元ネタがあるのかは知らないけど真実だと思うので積極的に実行していきたい。何かをやるかやらないかで迷ったとき、自分の場合やってみる割合はだいたい30%くらいで、残り70%はやったほうがいいかなぁと思いつつ手を出さずに終わってしまうか、無限に時間が経過してからようやく着手しはじめて、なんでもっと早くやっておかなかったんだと後悔するパターンなので、無為に消費している時間にそういう活動をねじ込んでいかねばならないと思っています。というか、本来そういう風に使おうと思っていた時間のはずだし、ねじ込むというか元々なんもやってないし正当なサボる理由もないのでタスク消化できるだろうという。

あとまあ、色々あって時間を大量に学習タスクに潰されることが確定しているみたいな事情もあります(意味深)。

そんな感じで、今試そうとしているのは、消化したいタスクは全部Redmineに突っ込んでおいて、それ以外に関しては可能な限り無視するという戦略です。本当にうまく行くんだろうか。今まで何度か思いついてもやらなかった戦略ではあって、今回は実験に移しているだけマシという説もあるけど、しかし賢者は歴史に学ぶという言葉もあり……。とか考えているとなんも進めないので、信じるべきは「やって後悔したほうがいい」メソッドですね。朝倉さんは分解されてしまったけど。

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2014-09-26

あずにゃん vs. モナド(続き)

成果発表会は思ったより反応が良かったので生きながらえました。


この間の続き。

あずにゃんとは何であるか、何があずにゃんを規定するかを考えます。あずにゃんは元々マンガのキャラクターなので、生み出した作者、すなわちかきふらい氏の頭の中にいるあずにゃんが最も最初のあずにゃんであることは疑いがありません。これがマンガの形を取って、我々の前に偶像として現れます。そして、その偶像を見た人が思い思いに、あずにゃんとはどういった性質をもつ概念であるか(この性質をあずにゃん性と呼ぶことにします)を理解します。あずにゃん性の理解の仕方は、もちろん個々の人によって違いますが、大まかなところは共通しているはずです。なぜなら、元をたどれば必ず最初の偶像であるマンガにたどり着き、更にかきふらい氏の想像という単一の点にまで遡れるからです。

さて、このようにして様々な人があずにゃん性を理解したところで、その理解に基づいて偶像を作る人が出てきました。偶像とは別のマンガであったり、アニメであったり、フィギュアであったりと様々です。こういった二次的な偶像は、最初の偶像よりも広く、速く広がっていき、あずにゃんの二次的な偶像のみに触れてあずにゃん性を理解する人も現れます。この段階の偶像は、もはやオリジナルのあずにゃん性を正確に表現しているか怪しいのですが、このタイミングで初めてあずにゃんに触れた人はこの偶像こそがあずにゃんを表しているのだと考えるしかありません。したがって、あずにゃん性の解釈は分散が大きくなり、「あずにゃん」というラベルは付いているが、既存のあずにゃん性とは大なり小なり異なった理解がたくさん生まれます。

これによって、あずにゃん性の拡大が発生すると考えられます。「二次あずにゃん」が偶像になるときと、それが解釈されるときにそれぞれノイズが混ざりますが、そのうちあるものは取り込まれたり、あるものは棄却されたりしつつ、これらの選択過程が同じ「あずにゃん」というラベルで表現されることにより、新しいあずにゃん性を構成するのです。

あずにゃん性の拡大については、モデルから導出するのではなく、実際に起こったことをモデル化して逆に取り込む形で定義しているので、いくつか具体例を挙げます。たとえば、マンガに出てくるあずにゃんから、軽音部のみんなでロンドンへ卒業旅行に行き、そこで演奏するような印象を読み取れるでしょうか。唯のことが大好きで、恋愛のような関係にまで発展するというストーリーはどこから出てきたのでしょうか。長い黒髪ツインテールはみんなあずにゃんに見えるなどと揶揄される(「ご注文はうさぎですか?」のリゼや「ラブライブ!」の矢澤にこ等)こともありますが、マンガで初登場したときからそのような現象はあったでしょうか。

こういった事象を吟味すると、あずにゃん性は一定しているものではなく、理解と具体化を繰り返され、常に変わりゆくものであるとするのが自然であると思われます。

さて、ここまでで材料は揃ったので、あずにゃん性とその理解についての関係を考えてみます。あずにゃん性とは、最初はかきふらい氏1人のものでしたが、偶像を通して人の目に触れ、そこから生まれた様々な解釈によって拡大されてきました。つまり、偶像や個々人によるあずにゃん性の理解という個多のモーメントが、あずにゃん性という全一のモーメントを形作っていると言えます。一方、元々のあずにゃん性なくしては、その理解も、理解の表現たる偶像も生まれ得ません。したがって、あずにゃん性とその理解、表現は互いに互いを形作っている、モナドの構造をもっていることになるのです。

なんかこう書くと、イデアを後から拡張できるようにしたイデア論のように見えますね。この理解で正しいんだろうか。詳しい人教えてください。

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2014-09-23

あずにゃん vs. モナド

明日の朝から夏休みの成果発表会なので死んでいます。進捗ダメです。


あずにゃんというのはモナドなんじゃないかなぁということを数日前にふと思いつきました。ここでいうモナドというのはHaskellや圏論に出てくるやつではなく、ライプニッツが言ってるやつのほうです1。ちなみに自分はモナドの解説書みたいな本を1冊読んだだけなので、モナドについて重大な勘違いをしている可能性があります。

あらゆる概念には全一のモーメントと個多のモーメントがあり、それぞれ全体と部分を表します。モーメントというのはよく分からない言葉遣いですが、方向性みたいな意味で理解すればいいっぽいです。たとえばみかんがあったとき、中の房は個多であり、これらの集合が全一であるみかんを形成しています。分解の粒度は房に限らず、着目する点によっては房の中のつぶつぶや分子・原子レベルまで分解してもよいと思います。このとき、全一は個多を「包み」ます。個多であるみかんの房が、みかんという概念のもとで空間的に集まっていることを「包む」と呼ぶようです。

今の例では、みかんが存在するためには、みかんの房の存在が不可欠となっており、これが「包む」ということの要件になっています。しかし、みかんの房はみかんそのものを「包み」ません。みかんの一部でなくても房は房として存在できます。この、個多が全一を「包ま」ないというのは一見当たり前っぽいですが、実はそうではないものもあります。たとえば、木の年輪は、全一である木の時間経過に従って増えていきますが、この全一なくして存在することはできません。年輪に沿ってはがされた皮は、既に年輪ではなくなっています。このように、時間的に全一が個多のありかたを規定するとき、個多が全一を「包む」と呼ぶようです(なんだか「包む」の主客が逆転してるように見えますが、これは自分の説明が下手なだけで、ひっくり返した表現も可能なはずです)。

このように、個多と全一が互いに「包み」合うとき、個多の方を「モナド」と呼びます。こういう性質をもつものとしては、先に挙げた年輪の他、泉(水と湧き出しを考える)や精神などがあるらしいです。

一度に書くには面倒な分量になってしまったので、明日(以降)に続きます。

参考文献:ライプニッツ『モナドロジー』 (哲学書概説シリーズ)


ところで、Twitterで誕生日プレゼントをねだったら、色々な人からプレゼントが送られてきています。ありがたいことです。

最近は研究で死んでいるばかりであまり面白いことができていない(特にmikutter方面でなんもしてない)ので、もらった分は何かしなければという感じですね……。

  1. Wikipediaを見ると圏論のモナドもライプニッツのモナドから名前を取っているみたいな記述がありますが、ソースもはっきりしてないし、概念的に関係があるのかもよく分からなくて微妙です。

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2014-09-20

休み

今日はRubyKaigiに行こうかと思っていたんですが、場所がちょっと遠いのと、起きたら13時だった上に微妙に身体がだるかったので、Ustreamで中継を見ていました。Burnの話とRuby Challengeのセッションを見て、Ripperすごいなーとか、Rubyの最適化すごいなーとか思ったりしました。

その後はHackerRankのAdInfをやっていました。あまり解けなくてつらみ。 CODE FESTIVALも問題を解いてましたが、DのDPが見えなくて死。ダメダメですね。

あと、誕生日プレゼントか、その前の結婚報告祝い(参考1参考2)なのかよく分からないけど、@toshi_aさんからあずにゃんをもらいました。

超かわいい。ありがとうございます。

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2014-09-19

哲学

実験データを解析していて、思ったよりずっと良い結果が出ていて喜んでいたら、単に処理方法を間違えていただけでした。直したら予想通りではあるけどあまり良くない結果になってちょっと悲しいです。

半年くらい前から断続的に哲学を勉強してるんですが、今ひとつ全体が見えなくてどうすればいいのか分からない感じになっています。何かひとつ思想を知ろうとすると、必ずそれより前の誰かの思想に根ざしているので、本を少し読んだくらいではなかなか理解ができない。改めて考えると、数学とか物理とかは学校教育の中でトップダウンに教える方法が確立されているので、口当たりの良い応用部分を学びながら基礎まで掘り下げていけるようになっているんですね。よくできている。

とりあえず、大学図書館の本棚を眺めていたら、岩波講座の現代思想が揃っていたので、1巻を借りて読んでみています。

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2014-09-18

救命講習

研究室で救命講習を受けないといけないみたいな話があり、3時間くらいかけて救命法を習ってきました。ポイントは

  • 腕や首から血が出ても上から押さえておくと止まる。上腕を縛るやつは30分くらいで壊死が始まるので最終手段。
  • 心臓マッサージすると老人とかは肋骨が折れることがあるけど、やらないと死ぬので無視してマッサージする。折れた肋骨で怪我することはないと思って良い。
  • AEDは本当に音声で指示が出るし、必要ないときは動かないし、何も考えずに使えばよい。

という感じでした。

研究はぼちぼち。1ヶ月くらい前に試しておくべき実験を今更やってみて結果が良くなったので、いったい何をやっていたんだという感じになりました。

電車の中とか研究室でぼーっとしてるときはBlogに書くネタをいろいろ思いつくんですが、帰るとすっかり忘れてますね。細かくメモを取る習慣を付ける必要がありそう。

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2014-09-17

Blogを書くということ

久々にを更新。

ちょっと気を抜くと1ヶ月くらいBlogを書かなくなってしまって良くないですね。定期的にアウトプットするクセを付けるという意味でも、思いついたことをTwitterに書き散らすのではなく、こういうところでまとめておいた方が良いというのは分かってはいるんですけどね……。

前に書いたのは、個人用サーバにHTTPSを導入したという話でした。正直この話、感覚的には1週間前くらいの意識になっていて、普通に考えればそんなわけないんですが、まあ忙しさを言い訳にしてだらだらと物事を先延ばしにしているとあっという間に時間が経ってしまいます。

3週間の間に何をしていたかというと、何をしていたんだろう。とりあえず苦しみながら研究はしていました。少しずつながら進んでいる気はします。

9/12からの4日間はICPCの夏合宿でスタッフをやっていました。2011年に国内予選を突破して以来3年間、過去問も含めればもっとお世話になっていたJAGですが、もう歳なのでついに運営側です。研究で苦しんでいて、あまり気持ちの切り替えができるほうではないのでその精神状態をずっと引きずってしまい、問題セット作りの手伝いはかなりサボりがちになってしまいました。ジャッジとして観戦しているのはすごく楽しかったので、次はもっと真面目に関われるといいなぁと思います……。

こういうことを毎日書くための場所がここだったはずなので、もう少し頑張りたいですね。

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